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敗戦日本の精神的景観:江戸川乱歩の探偵小説に見る戦後社会の歪み

ガライ, サイカット

Abstract

江戸川乱歩の短編小説『芋虫』は戦争文学における重要な作品として戦争が個人と社会に与える影響を深く掘り下げている。本論文では、『芋虫』を中心に、戦争が人間性を奪い、帰還兵を社会から疎外するというテーマを分析する。本作品の主人公である須永中尉は戦争で四肢を失い、完全に他者の助けに依存する生活を強いられる。その異形化された身体と精神的な孤立は、戦争がもたらす非人間化の象徴である。また、妻との関係を通じて、戦争が夫婦関係やジェンダーの役割に与える変化も浮き彫りにされる。時子は夫の身体に対する嫌悪と興味の入り混じった感情を抱え、夫婦間の権力構造が逆転していく様子が描かれている。本論文ではさらに、アーネスト・ヘミングウェイ作『Soldier’s Home』を二次的な参照として取り上げ、戦争後の社会が帰還兵に対して示す冷淡さと疎外感について比較検討する。両作品に共通するのは、戦争経験者が平時の社会に適応できず、孤立を深める様子である。須永とクレブスの心理的で身体的な苦悩は、戦争がもたらす普遍的な問題を象徴している。これらの作品を通じて、戦争の長期的な影響と、帰還兵に対する社会的なサポートの必要性を訴えられている。

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Taiyō An International, Peer-Reviewed, Refereed, Open Access e-Journal www.taiyoejournal.com TAIYO2412008 VOLUME – 1 ISSUE – 2 December-2024 ISSN: 3048-8141 (Online) DOI: 10.5281/zenodo.14773598 1 敗戦日本の精神的景観:江戸川乱歩の探偵小説に見る戦後社会の歪み サイカット・ガライ 博士前期課程 ネール大学 [email protected] 要旨 江戸川乱歩の短編小説『芋虫』は戦争文学における重要な作品として戦争が個人と 社会に与える影響を深く掘り下げている。本論文では、『芋虫』を中心に、戦争が 人間性を奪い、帰還兵を社会から疎外するというテーマを分析する。本作品の主人 公である須永中尉は戦争で四肢を失い、完全に他者の助けに依存する生活を強いら れる。その異形化された身体と精神的な孤立は、戦争がもたらす非人間化の象徴で ある。また、妻との関係を通じて、戦争が夫婦関係やジェンダーの役割に与える変 化も浮き彫りにされる。時子は夫の身体に対する嫌悪と興味の入り混じった感情を 抱え、夫婦間の権力構造が逆転していく様子が描かれている。本論文ではさらに、 アーネスト・ヘミングウェイ作『Soldier’s Home』を二次的な参照として取り上 げ、戦争後の社会が帰還兵に対して示す冷淡さと疎外感について比較検討する。両 作品に共通するのは、戦争経験者が平時の社会に適応できず、孤立を深める様子で ある。須永とクレブスの心理的で身体的な苦悩は、戦争がもたらす普遍的な問題を 象徴している。これらの作品を通じて、戦争の長期的な影響と、帰還兵に対する社 会的なサポートの必要性を訴えられている。 キーワード PTSD、非人間化、疎外、トラウマ、戦争文学、社会的排除 Taiyō An International, Peer-Reviewed, Refereed, Open Access e-Journal www.taiyoejournal.com TAIYO2412008 VOLUME – 1 ISSUE – 2 December-2024 ISSN: 3048-8141 (Online) DOI: 10.5281/zenodo.14773598 2 初めに:戦争の残した傷跡 戦争文学 1は、戦争という極限状況がもたらす人間の苦悩や社会の課題を描く重要 なジャンルである。このジャンルは、兵士たちの心身に刻まれる傷跡や、彼らが社 会へと復帰する過程で直面する困難に焦点を当てることで、戦争の真の姿を浮き彫 りにする。特に、日本の推理小説作家である江戸川乱歩は、その独自の視点から戦 争の影響を描き、人間心理の暗部を鋭く抉り出した。その代表作の一つである短編 小説『芋虫』は、戦争がもたらす非人間化やトラウマ、社会的疎外を描いた衝撃的 な作品である。『芋虫』の話は、戦場から戻った後に四肢を失い、声を発すること もできなくなった主人公の須永中尉を中心に展開される。この物理的な変容は、戦 争が人間から人間性を奪い取る恐怖を象徴している。また、彼の妻である時子との 複雑な関係は、戦争がもたらす心理的な緊張や道徳的境界の崩壊を浮き彫りにして いる。乱歩はこの作品を通じて、戦争が兵士やその家族に与える莫大な代償を描く と同時に、戦争の美化や英雄視に対する批判を提示している。 このようなテーマは、アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイの短編小説 『Soldier’s Home』2にも見られる。この作品では、戦争の心理的影響が主人公ク レブスの孤立感や感情的な麻痺として描かれている。クレブスが戦後の平和な社会 1 戦争文学とは、戦争そのものや戦争が人間、社会、文化にもたらす影響を主題に した文学ジャンルを指す。このジャンルでは、戦争の恐怖、暴力、非人間化、道徳 的ジレンマ、トラウマ、兵士や民間人の苦悩などが扱われる。特に第一次世界大戦 後、このジャンルは大きな注目を集めた。例えば、ヘミングウェイの『武器よさら ば』やレマルクの『西部戦線異状なし』などは、戦争文学の代表的な作品として知 られている。戦争文学は、戦争の美化に対抗し、その真の残酷さや人間への影響を 読者に訴える役割を果たしてきた。 2 アーネスト・ヘミングウェイの『Soldier’s Home』は、第一次世界大戦の退役軍 人ハロルド・クレブスがオクラホマ州の小さな町に戻る様子を描いている。かつて の兵士たちの祝福された帰還とは異なり、クレブスの帰郷は疎外感と断絶によって 特徴づけられている。この静かで深遠な話は、帰還後兵たちが抱える心理的負担を 反映し、戦争が終わった後も彼らが持っていく見えない傷跡を描いている。 Taiyō An International, Peer-Reviewed, Refereed, Open Access e-Journal www.taiyoejournal.com TAIYO2412008 VOLUME – 1 ISSUE – 2 December-2024 ISSN: 3048-8141 (Online) DOI: 10.5281/zenodo.14773598 3 に適応できず、家族や地域社会との関係を失う様子は、戦争がもたらす目に見えな い傷跡を象徴している。『芋虫』とは異なり、身体的なトラウマではなく、精神的 な疎外が中心となる点で異なるアプローチを取っているが、どちらの作品も、戦争 がもたらす非人間化や社会からの孤立という普遍的なテーマを共有している。本論 文では、江戸川乱歩作『芋虫』を中心に、戦争が引き起こす非人間化、トラウマ、 社会的疎外というテーマを分析する。また、ヘミングウェイの『Soldier’s Home』 を参考作品として取り上げ、異なる文化背景の中でこれらのテーマがどのように表 現されているかを比較し、戦争の普遍的な影響について考察する。これにより、戦 争文学が現代社会においてどのようなメッセージを持つのかを探求していきたいと 思う。 作家紹介 江戸川乱歩(本名:平井太郎、1894 年10 月21 日生まれ、1965 年7月28 日没) は、日本の推理小説作家で、日本における探偵小説の礎を築いた人物として知られ ている。彼の筆名は、彼が深く敬愛していたアメリカの作家エドガー・アラン・ポ ーに由来している。乱歩は三重県名賀郡名張町で生まれた。2歳のときに父の転勤 で三重県鈴鹿郡亀山町に移り、翌年には愛知県名古屋市に転居した。幼少期から旧 制中学卒業までの 15 年間を名古屋で過ごし、この期間が彼の人格形成に大きな影響 を与えた。小学生の頃、母に読み聞かされた菊池幽芳訳『秘中の秘』が、探偵小説 との最初の出会いとなった。旧制愛知県立第五中学校を卒業後、早稲田大学の政治 経済学科に進学した。 大学卒業後、乱歩は貿易会社社員、古本屋、支那そば屋など多くの職業を経験し た。1923 年(大正 12 年)、博文館の雑誌『新青年』に処女作『二銭銅貨』を発表 し、作家としてデビューした。以降、『D坂の殺人事件』や『陰獣』などの作品を 次々と発表し、名探偵・明智小五郎を生み出した。また、児童向けの『怪人二十面 相』や『少年探偵団』なども執筆し、幅広い人気を集めた。戦時中、乱歩の作品は Taiyō An International, Peer-Reviewed, Refereed, Open Access e-Journal www.taiyoejournal.com TAIYO2412008 VOLUME – 1 ISSUE – 2 December-2024 ISSN: 3048-8141 (Online) DOI: 10.5281/zenodo.14773598 4 軍部の検閲や弾圧の対象となり、執筆活動が制限された。特に、太平洋戦争中は探 偵小説が「軟弱」と見なされ、発表の場が限られた。このような状況下で、乱歩は 福島県に疎開し、終戦を迎えた。彼は自身の著書『探偵小説四十年』の中で、終戦 時の心境を「私はその時、大腸カタルが治らないで、骨と皮ばかりになって寝てい たのだが、その病床で、私は探偵小説はすぐに復活すると考えた 3」と記している。 この記述から、戦時中の抑圧的な状況下でも、探偵小説の復興に対する強い信念を 持っていたことが窺える。 乱歩の作品の中で、戦争を直接のテーマとしたものは多くないが、短編小説『芋 虫』がその代表的な例として挙げられる。この作品では、戦争で四肢を失った帰還 兵の悲惨な状況と、それに伴う人間の心理的変化が描かれている。また、戦時中に 執筆された『防空壕』という作品も存在している。この作品では、防空壕という戦 時下の特殊な空間を舞台に、人々の心理や社会の状況が描かれている。これらの作 品を通じて、乱歩は戦争が人間にもたらす深刻な影響や、社会の暗部を鋭く描写し ている。 戦後、乱歩は探偵小説の復興と発展に尽力した。1947 年(昭和 22 年)には探偵 作家クラブ(後の日本推理作家協会)の初代会長となり、1955 年(昭和 30 年)に は自身の寄付を基金とした江戸川乱歩賞を創設し、後進の育成にも力を注いだ。ま た、1959 年(昭和 34 年)には紫綬褒章を受章し、その功績が広く認められた。晩 年は東京都豊島区にある立教大学の隣の邸宅に移り住み、70 歳でこの世を去った。 彼の邸宅は現在、立教大学が管理する「旧江戸川乱歩邸(大衆文化研究センタ ー)」として保存されている。 江戸川乱歩は、日本の推理小説界に多大な影響を与えた作家で、その作品は現在 も多くの読者に愛されている。戦争という過酷な時代を経ても、彼の創作意欲は衰 えず、戦争が人間や社会に及ぼす影響を鋭く描写した。その中で短編小説『芋虫』 3 https://dot.asahi.com/articles/-/118160 Taiyō An International, Peer-Reviewed, Refereed, Open Access e-Journal www.taiyoejournal.com TAIYO2412008 VOLUME – 1 ISSUE – 2 December-2024 ISSN: 3048-8141 (Online) DOI: 10.5281/zenodo.14773598 5 は、戦争の恐怖とその後遺症を取り上げた作品として特に重要である。本論文で は、この『芋虫』を中心に取り上げ、戦争がもたらす非人間化や社会的疎外という テーマを深掘りし、その文学的・社会的意義について分析していく。この作品を通 じて、乱歩がどのようにして戦争の悲劇を描き、人間性の喪失や戦争後の社会の課 題を浮き彫りにしたのかを探求していく。 江戸川乱歩作『芋虫』における身体的及び心理的恐怖 江戸川乱歩の短編小説『芋虫』は、戦争によって引き起こされた身体的と心理的 なトラウマを不気味に描いている。本作品は戦場で重傷を負い、四肢を失い声さえ かけられない須永中尉という兵士の帰還を語っている。ヘミングウェイ作 『Soldier’s Home』が帰還兵の感情的および社会的な疎外に焦点を当てているのに 対し、『芋虫』は戦争のグロテスクで非人間的な身体的影響に掘り下げ、トラウ マ、アイデンティティ、障害に対する社会の認識について探求を展開している。 須永が手足を失い声も奪われた存在へと変貌することは、『芋虫』の中心的なテ ーマである。身体的な自律性を失い、完全に他者への依存を余儀なくされた須永 は、まるで芋虫のように動いている。芋虫は這い回り、身をよじるだけで、自らの 運命を制御する力を持たない生き物である。この非人間化された比喩は、戦争の残 酷な結果を強調し、かつて誇り高い兵士だった須永を哀れで、ほとんどグロテスク な姿に貶めている。文学批評家マーク・シルバーは、須永の身体的状態は戦争が兵 士から人間性を奪い去り、かつての自分の残骸に過ぎない状態にまで引き下げるこ とを象徴する強力なシンボルであると論じている(シルバー, 2008)4。乱歩の生々 しい描写は、須永の身体的状態に対する恐怖と哀れみを喚起し、読者に戦争の負傷 4 マーク・シルバーは、20 世紀初頭の日本の探偵小説の優雅で独創的な歴史を著し た。この探偵小説は、正統な明治小説とはまったく異なる独自の伝統を持ってい た。シルバーは、文化が互いにどのように反応するかという大きな理論的疑問に取 り組み、江戸川乱歩のような推理小説のジャンルに多大な貢献をした作家たちの新 しい解釈を提供した。 Taiyō An International, Peer-Reviewed, Refereed, Open Access e-Journal www.taiyoejournal.com TAIYO2412008 VOLUME – 1 ISSUE – 2 December-2024 ISSN: 3048-8141 (Online) DOI: 10.5281/zenodo.14773598 6 という現実を直視させる。『Soldier’s Home』のクレブスが抱える心の傷が心理的 でほとんど見えないものに対し、須永の負傷は目に見えるほどグロテスクであり、 戦争の残虐さを絶えず思い起こさせるものとなっている。この対照的な描写は、兵 士を英雄として美化する傾向に挑み、彼らの苦悩を率直に描き出している。 須永の身体的状態は彼のトラウマの最も顕著な表れである一方で、本作品は彼の 苦悩の心理的側面も探求している。須永の帰還は安らぎや癒しをもたらすものでは なく、むしろ心理的な苦痛の場となる。妻の時子は当初、義務感と哀れみから世話 するが、話が進むにつれて彼女の感情は変化していく。彼女は次第に憎しみを抱 き、さらには残酷な態度を取るようになり、トラウマ 5の影響で生じる複雑でしばし ば暗い人間関係を反映している。時子の変化する態度は、戦時の負傷が家族関係に 与える大きな負担を象徴している。時子の残酷さは、彼女自身のトラウマや苛立ち の表れとも解釈でき、それは夫の世話をするという圧倒的な重荷に対処するための 方法といえる。また、彼女の行動は退役軍人やその家族に対する社会的支援の不足 を浮き彫りにし、彼らを戦争の後遺症に対して孤立した状態に追いやられることを 示している。須永と時子の心理的な相互作用は、障害を負った退役軍人に対する社 会全体の対応を象徴する縮図とされる。須永の存在は戦争の恐怖を常に思い起こさ せるものであり、それは時子だけでなく、社会全体が忘れたいと願う現実でもあ る。この傾向は、兵士がしばしば彼らの必要性を理解する準備ができていない世界 に戻らなければならないという不快な現実を反映している。 乱歩の心理的恐怖とグロテスクなイメージの活用は、『芋虫』の衝撃を生む上で 中心的な役割を果たしている。不安をかき立てる話のトーンと鮮明な描写は、読者 5 同じようなテーマは夏目漱石作『こころ』(1914 年)に探求されている。この小 説は、友人 Kの悲劇的な死を招いた裏切りに対する罪悪感から、社会から孤立し、 深い自己嫌悪に陥る「先生」を主人公としている。この未解決のトラウマが彼の世 界観を形成し、不信感と深い道徳的葛藤を育み、最終的には自ら命を絶つという悲 劇的な決断に至る。『こころ』は、罪悪感、孤独、人間関係の脆さを描写してい る。 Taiyō An International, Peer-Reviewed, Refereed, Open Access e-Journal www.taiyoejournal.com TAIYO2412008 VOLUME – 1 ISSUE – 2 December-2024 ISSN: 3048-8141 (Online) DOI: 10.5281/zenodo.14773598 7 に須永の状態の生々しい現実を直視させる。この恐怖の応用は、戦争がもたらす非 人間化の影響を強調している。文学批評家セス・ジェイコボウィッツは、乱歩の作 品が心理的なものと身体的なものの境界をしばしば曖昧にし、トラウマが引き起こ す不安感を創出していると指摘している(ジェイコボウィッツ, 2015)。「芋虫」 という比喩は特に重要である。それは須永の身体的状態だけでなく、彼のアイデン ティティや自律性の喪失をも象徴している。芋虫は通常、変態や変化と関連付けら れる生き物だが、この場合は停滞や閉じ込めの象徴となっている。須永の状態は、 成長や変革の典型的な物語のグロテスクな逆転を表しており、戦争がいかにして人 間の可能性を停滞させ、歪めるかを浮き彫りにしている。 江戸川乱歩作『芋虫』における須永中尉の描写は、日本社会が戦争帰還兵に対し て抱いていた無関心と疎外感を象徴的に表現している。戦場で両腕両脚を失い、声 すら失った須永中尉は、単なる「生存者」として社会に戻されるが、彼の存在は社 会から見てほとんど無視されるか、場合によっては不快なものとされる。この状況 は、戦争中に英雄視され、国家のために奉仕した兵士たちが、戦後の平和な社会に おいては不要とされる矛盾を反映している。須永の身体的な変容は、単なる個人の 悲劇ではなく、戦争がもたらす国家と社会の構造的な問題を象徴している。第一次 世界大戦後の日本は、西洋化と近代化を進める一方で、戦争の傷跡を見過ごす傾向 があった。経済成長や国際的な地位の向上が優先される中で、戦争帰還兵の心身の ケアや社会復帰支援は十分に行われなかった。これは、須永中尉のような人物が社 会の中で疎外される背景を形成しており、彼が「異物」として扱われる理由とも言 えよう。乱歩は本作品を通じて、戦争が兵士たちに及ぼす身体的・精神的な犠牲だ けでなく、彼らを受け入れない社会の冷淡さにも焦点を当てている。 また、この疎外感は文化的な文脈においても重要な意味を持つ。伝統的な日本社 会では、共同体意識や社会的役割が重視されており、個人はその中で価値を見出す とされている。しかし、須永のような重度の障害を負った兵士たちは、その身体的 な制約から社会的役割を果たすことができず、自らの存在意義を失うことになる。 Taiyō An International, Peer-Reviewed, Refereed, Open Access e-Journal www.taiyoejournal.com TAIYO2412008 VOLUME – 1 ISSUE – 2 December-2024 ISSN: 3048-8141 (Online) DOI: 10.5281/zenodo.14773598 8 彼らの孤立は、個人の問題であると同時に、社会全体の問題でもある。このような 状況下で、帰還兵たちは社会の一員として認められず、精神的にも肉体的にも二重 に疎外される結果となった。さらに、『芋虫』の中で描かれる須永と妻・時子の関 係も、この社会的無関心を象徴している。時子は表面的には夫の面倒を見ているよ うに見えるが、実際には彼に対して愛情や共感することができず、逆に彼を「異形 の存在」として見ている。このような描写は、個人間の疎外感と社会的な無関心が 複雑に絡み合っていることを示している。乱歩は、これらの要素を通じて、戦争帰 還兵が抱える孤立感や社会からの断絶を批判的に描いている。 『芋虫』におけるジェンダーと人間関係の役割 江戸川乱歩の『芋虫』において、ジェンダーと人間関係のテーマは、戦争による トラウマと非人間化の中核を形成する重要な要素として描かれている。本作品で は、須永中尉と彼の妻である時子の関係を通じて、戦争がもたらす心理的・身体的 な影響が個人間の関係にどのように影響を与えるかが克明に描かれている。時子は 話全体を通じて、複雑な感情を抱えるキャラクターとして描かれている。彼女は一 見、夫である須永中尉を献身的に世話する「理想的な妻」のように見えるが、その 内面には夫に対する嫌悪感や歪んだ好奇心が潜んでいる。須永が戦争によって四肢 を失い、自立する能力を完全に奪われたことで、時子は夫を単なる「負担」として ではなく、「異形の存在」として見るようになる。この視点は、時子自身のジェン ダー的役割への葛藤を象徴している。彼女は伝統的な「妻」としての役割を果たし つつも、その裏で夫をコントロールする力を得るという矛盾を抱えている。また、 戦争によって須永が身体的に無力化されたことで、夫婦間の権力バランスが逆転す る。時子は夫に対して優位に立ち、これまでの「従順な妻」の立場から脱却するか のように振る舞う。この権力逆転は、ジェンダーの固定観念に対する乱歩の挑戦と も解釈できる。須永の身体的な無力さが、時子に新たな自己認識と欲望の形をもた らした点で、この作品は戦争の影響がジェンダーの役割にも波及する。 Taiyō An International, Peer-Reviewed, Refereed, Open Access e-Journal www.taiyoejournal.com TAIYO2412008 VOLUME – 1 ISSUE – 2 December-2024 ISSN: 3048-8141 (Online) DOI: 10.5281/zenodo.14773598 9 夫婦関係における心理的な距離感もまた、本作品の重要なテーマである。須永と 時子の関係は、戦争による身体的な変化を通じて徐々に歪んでいく。戦前、須永は 家庭における「主人」としての地位を持ち、時子もその枠組みに従っていたかもし れない。しかし、戦後、須永が四肢を失ったことで、その地位は大きく揺らぐ。時 子は夫を支える役割を担うが、その内心では夫への嫌悪感と新たに芽生えた支配欲 との間で葛藤を抱える。この葛藤は、戦争がもたらした「新しい現実」が夫婦間の 関係にどれほど深刻な影響を及ぼすかを示している。さらに、時子の心理的変化に は性的な側面も含まれている。話の中で彼女が夫の身体に対して感じる「嫌悪と興 味の混在」は、戦争がもたらした身体的損傷が単に物理的な問題だけでなく、夫婦 間の性的な親密さにも影響を与えることを示唆している。須永の「異形化された身 体」は、彼が以前の「夫」としての役割を果たせないことを象徴しており、時子の 目には「非人間的な存在」として映る。このような描写は、夫婦関係がいかに戦争 の影響を受けるかをリアルに描き出している。 『芋虫』における夫婦関係は、単なる個人的な話にとどまらず、戦争が社会全体 に及ぼす影響を象徴している。時子の視点を通じて描かれる須永の「異形化」は、 戦争帰還兵が社会的に疎外される現実を反映している。また、時子の内面の葛藤 は、戦争後の社会がどのように帰還兵を受け入れるべきかについての道徳的な問い かけを読者に投げかけている。江戸川乱歩は、この作品を通じて、戦争が夫婦関係 やジェンダーの役割をいかに変容させるかを探求した。時子と須永の関係は、戦争 によって引き起こされた身体的で精神的な破壊が、人間関係の根底にどれほど深い 影響を与えるかを示すと同時に、戦争の非人間的な側面を象徴している。このテー マを通じて、『芋虫』は戦争が個人と社会に与える複雑な影響を浮き彫りにしてい る。